5月30日、天満天神繁昌亭に林家小染さんの独演会を聴きにいってきた。
その独演会では、中入り後、浪曲師の師匠(お名前失念しました)と小染さんのコラボレーションがあった。とても面白く、おなかを抱えて笑ったのだが、私にとって新発見だったのは、浪曲の節回しの心地よさである。そのときふと思い当ったのは、「これは民生さんの『つくば山』(アルバム『30』収録)や『たびゆけばあたる』にとても似ているのではないか」ということだ。
浪曲はもちろん日本固有の伝統文化であり、その歌唱法は演歌や歌謡曲に脈々と受け継がれている。日本語という言語は、英語などと違って、強勢(stress)ではなく、音の高低(pitch)で強弱を表現する言語である。そのため、浪曲の歌唱法にもそれはあてはまる。
ここからが本題なのだが、民生氏は、楽曲におけるrhythmの重要性をしばしば強調している。それは、ひとりカンタビレにおいて、「タンバリンがこけたら曲がこける」「ギターもパーカッション」「歌も楽器のひとつ。すべてはグルーブを生み出すため」という発言からも十二分に窺える。つまり、民生氏の楽曲において、もっとも重要視されているのは、groove、rhythmだと言えると思う。
このことから単純に考えると、「じゃあ歌もstressをつけて歌ってるのかな」という結論がでてくるが、そこは、rhythmとrhyme(韻)、言葉の音が持つ響きに人一倍鋭敏な感覚を持たれている民生氏である。そんな単純な結論ではないだろう。
『つくば山』や『たびゆけばあたる』をお聴きになった方ならおわかりだろうが、民生氏は、これらの楽曲では、日本語の語感を大切にし、母音の響きを最大限に生かした歌唱法をされていると思う。つまり、浪曲師の歌い方と共通する歌唱法だと私は感じたのだ。
Rockn'rollやR&Bでは、rhythmをきちんと刻めるかが曲の成否を決める。そのことを十分理解したうえで、楽曲のrhythmはドラムやギターやタンバリンでしっかり刻み、歌唱法では、日本的郷愁を掻き立てるような、「こぶしをまわす」「子音を弱く、母音を伸ばす」ものを使用することで、日本的情緒と西洋的rhythmを見事に融合させてしまう。民生氏はこういったことを恐らく直感的に感じ取り、軽々と行っておられるように見える。Crossover-西洋と日本の垣根を超え、新しい世界へと飛翔されているように感じるのは私だけだろうか。
『えんえんととんでいく』に関する考察でも指摘したように、民生氏の歌詞は言葉遊びで溢れている。単に『言葉遊び』と片付けてしまうには、あまりにも惜しいので、別の機会に考察したいのだが、とにかく、『たびゆけばあたる』という題名からして、大変面白いではないか。この楽曲では、“棒”がひとつのキーとなるメタファーとして機能している。
西洋的rhythm、日本的な歌唱法、ことば遊び、こういった様々な要素が複雑に絡まりあって、民生氏の素晴らしい楽曲が生まれている。しかし、さらに凄いことは、こういったことをまるで苦もなく(見えないところで努力されているとは思うけれども)成し遂げてしまうように見えるところだ。
民生氏の楽曲を聴けば聴くほど、その凄さに感嘆するばかりである。
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