奥田民生氏は雑誌のインタビューなどで、「歌詞の意味はとくに重要視していない」という内容の発言を何度かされている。しかし、彼の発言とは裏腹に、民生氏の歌詞には、彼の音楽を省いてしまっても、言葉それ自体に確かな音楽性があり、また含蓄に富んだ内容と相まって私たちに深い感動を与えてくれる。
たとえば、ひとりカンタビレライブで発表された『えんえんととんでいく』という楽曲。もちろん、音楽性が素晴らしいのは言うまでもない。私がここで強調したいことは、歌詞という、音楽を切り離した言葉の世界においても、そこに存在する“言葉の響きの美しさ”である。
以下に歌詞を引用する。
『えんえんととんでいく』
あの鳥はどこへいく
渡り鳥がただがんとして
闇の中をとんでく
列をくんで大きく見せて
長い距離をとんでく
えんえんとえんえんと
延々とゆくのか
えんえんとえんえんと
延々とゆくのか
永遠の永遠の
永遠のながめか
永遠の永遠の
永遠のさだめか
あともどりしたいけど
前のめりでとんでく
傷ついたあちこちを
治しながらとんでいく
えんえんとえんえんと
延々とゆくのさ
えんえんとえんえんと
延々とゆくのさ
永遠の永遠の
永遠のリハビリ
永遠の永遠の
永遠のリハビリ
えんえんとえんえんと
延々とゆくのさ
えんえんとえんえんと
延々とゆくのさ
永遠の永遠の
永遠のながめさ
永遠の永遠の
永遠のさだめさ
永遠の
永遠の
あの鳥は南の島
一読しただけで、詩に造詣の深い方でなくても、この歌詞に様々な作詞の技法(頭韻、脚韻、同じ音の繰り返し、同音異義語の多用など)が用いられていることがおわかりになるだろう。
特に、頭韻ではア音、エ音、三重母音(エイエ(ン)など)が多く使われている。ア、エ、オという母音は口を解放して発音するので、”音を発声する喜び”を私たちに与えてくれる音なのだが、民生氏の歌詞には、これらの母音が多用されるという特徴がある。
また、脚韻では、「~とんでいく」「~とんでく」、「~さだめか」「~ながめか」、「~がんとして」「~見せて」など、子音を1音もしくは2音変えるだけで、母音の配列は同じ、という技法が繰り返し使用されている。
これは、民生氏の他の楽曲にも共通する特徴だが、こういった「ことば遊び」に私たちは本能的な悦びを感じるのである。これはマザーグースなどの童謡にもよくつかわれる手法であり、ビートルズの歌詞にもこの技法がよく使われている。
つまり、民生氏の歌詞には、国籍・使用言語に関係なく、人間が本能的に持っている、言葉の音に対する感覚を悦ばせる音楽性があるといえるのではないか。そして、その言葉の音と、彼が使用するメタファー(「人生は旅」)とが絶妙に組み合わされ、えも言われぬ美しい歌詞が生み出されているのだろう。
「歌詞はどうでもいい」というのは、民生氏特有の謙遜であることは、みなさんも御承知だろうと思う。彼は、「どうでもいい」どころか、言葉というものに対して、類まれな鋭い感覚を持ち合わせているのだ。そして、その感覚が、彼の音楽と結びついたときに、奇跡のような美しい楽曲が誕生するのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿