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2010年7月25日日曜日

奥田民生:Win-Win Relationship ---ネット配信とCDリリースの共闘 更なる音楽業界の発展へ

奥田民生氏の2年10ケ月ぶりとなるニューアルバム『OTRL』が、8月4日に発売となる。このブログでもお知らせしたが、この『OTRL』は、民生氏が3月15日から5月23日まで、計10回にわたって行ってこられた、「ひとりカンタンビレ」ライブで録音された10曲の音源を、スタジオで再びミックスダウンし、これに「幻の公演」で録音された『暗黒の闇』を追加した計11曲を収録したものである。初回限定盤には、5月7日のSHIBUYA-AXでのカンタビレライブのダイジェスト映像と、質問コーナーの映像が入ったDVDが付いている。Amazonで購入すると、初回限定盤は20パーセントOFFで購入できるので、この奇跡の名盤をぜひ手に入れて聴いていただきたい。また、「Sound & Recording Magazine」7月号で、民生氏のエンジニアでいらっしゃる宮島哲博氏のお話にもあるように、すでに配信済みの音源をお持ちの方でも、リミックスされたものと聞き比べることによって、ミックスダウンという作業がどれだけ楽曲に影響を与えるか、ということを実感するいい機会になることは必至である。宮島氏は上記の雑誌の中で、カンタビレライブを行うに当たってのご苦労やその後のリミックスの際に気をつけられたことなどをお話されており、民生氏の最も近い仕事仲間の一人でいらっしゃる宮島氏から見た、奥田民生という音楽家の佇まいが伝わってくる、大変興味深い内容であった。音楽業界を目指される方は一読をお勧めする。

CDの売り上げが伸び悩んでいるといわれて久しい。CDの売り上げが落ちるに伴って、音楽業界も下り坂に差し掛かってきているようである。売れないCDを何とか売るために、DVDを添付したり、ライブ音源を付け加えたりと、工夫に余念がない。夏フェスのチケットも、売れ残り続出という状況である。こういった状況は、リスナーの音楽に対するモチベーションの低下を表しているだろう。「音楽」が単なる消費の対象として、「使い捨て」ならぬ「聴き捨て」されているのだ。
そして、CD売り上げ減少、つまり、「音楽の使い捨て現象」のA級戦犯と名指しで非難されてきたのが、itunesなどを代表とする、ネットでの音楽配信である。

ネットでの音楽配信が、インターネットの普及に伴って爆発的に広まった。「1クリックで好きな音楽を手軽にダウンロード」「アルバムを買わなくても、好きな1曲だけでも購入可能」といった、手軽さと安価が受けて、音楽のネット配信は、CDの売り上げを圧迫するまでに成長した。また、携帯電話で、「着うたフル」といった1曲丸まるダウンロード可能といったサービスも、消費者に爆発的に支持されてきた。
しかし、最近、この音楽のネット配信、特に携帯電話でのダウンロードが、急速に萎みつつある。だからといって、急にCDの購入に客が戻るわけもなく、音楽業界全体の衰退に拍車をかける、といった様相を呈している。

ここで、この問題に新たな解決策を提示したのが、奥田民生氏のひとりカンタビレライブである。ネット配信の即時性を十二分に活かして、その日のレコーディングライブで収録した楽曲を、3時間以内にレコ直やmoraといった、音楽配信サイトで即日配信。ライブに行きたくても行けなかった多くの民生氏のファンは、「出来立てほやほや」の民生氏の楽曲をほぼタイムラグなしで聴くことができたのだ。また、普段は完成品としてのアルバムを聴くことしか出来ないリスナーが、「アルバムが出来上がる過程」をどきどきしながら見守り、1曲1曲の完成を心待ちにする、という楽しみも同時に与えてくれた。これまで、音楽のネット配信の特性をここまで活かすことの出来たアーティストがいただろうか。私は、寡聞にして知らない。

そして、民生氏のさらに凄いところは、ライブで収録した音源をそのままCDにするのではなく、さらに時間と手間をかけてリミックスし、「音源は同じだが、ミックスが異なる」CDを、ひとりカンタビレツアーが終了してほぼ2ヶ月半でリリースするという偉業にある。ネットでの配信曲がまだ新鮮味を失っていない、つまり、まだ話題性があるうちにCDをリリースすることで、ネットでの楽曲ダウンロード数も、CDの売り上げも相乗効果で上昇するだろう。このタイミングのよさ、判断力、見通しの確かさ、どれをとってもすばらしい。民生氏は、音楽家として優れているだけでなく、実業家としても大変冷静で頭の切れる方である。

勿論、こういった形態が、すべてのアーティストに応用され得るとは思っていない。なぜなら、ひとりカンタビレというライブは、民生氏の音楽家としての力量に拠って立つところが大きいからである。しかし、この、民生氏のパイオニア精神に溢れる挑戦は、「ネット配信 VS CD売り上げ」という図式を、まったく異なる角度から捉えなおし、"Win-Win"関係の構築の可能性を示唆している。

この先、「ライブで新曲発表」→「その日のうちにライブ音源をネット配信」→「後日リミックスしたCDを発売、特典にライブ映像添付」というCDの売り方が主流になっていくのではないだろうか。そうすることで、音楽のネット配信とCD発売とは、適切な「棲み分け」がなされ、どちらも生き残り、音楽業界の発展に寄与するのではないだろうか。

奥田民生氏の今回の挑戦は、私に音楽業界の新たな発展の可能性を感じさせてくれた。そういう意味でも、真に革新的なライブであったと思う。

2010年7月6日火曜日

奥田民生:求めよ、さらば救われん ---表現者という孤独

これまで、何回かにわたって拙い私的奥田民生論を展開してきたが、ここで一旦中間総括を行っておきたいと思う。

民生氏の作詞の技法として、メタファーの多用、擬音語、同音異義語の多用、矛盾する表現を同時に使用するなど、これまでの考察の中でいくつか指摘してきた。それを踏まえた上で、民生氏の詩の世界をもう一度考えてみると、興味深いことが浮かんでくる。

民生氏は、ご自分の心の内をストレートに歌詞に載せる、ということはほとんどない。上記で指摘した技法を駆使して、いうなればリスナーを上手に「煙に巻く」ことを得意としていらっしゃる。しかし、いわゆる芸術家といわれる方たちは、表現する以外に魂のほとばしりを止める手段がないので、やむにやまれず表現者に成っているのだ。だから、自分のメッセージが伝わらなくていいと思っている表現者はいないだろう。そういう意味では、民生氏も表現者であるから、「どうしても伝えたいこと」を必ずお持ちである。

皆さんは民生氏のCUSTOMという楽曲をご存じだろうか?どなたかがもう指摘されていることだが、この楽曲は珍しく民生氏のストレートな思いが歌になったものである。以下に歌詞を引用する。

CUSTOM

伝えたいことが そりゃ僕にだってあるんだ
ただ笑ってるけれど

伝えたいことは 言葉にしたくはないんだ
そしたらどうしたらいいのさ

そこで 目を閉じて 黙って 閃いて 気持ちこめて
適当な タイトルで ギターを弾いてみました


頭の中が 見せられるなら 見せるんだ
ただ笑ってるだけで すむのさ

だから 目を閉じて 気取って 間違えて 汗をかいて
あやふやな ハミングで 歌を歌ってみました
叫びました

誰か 誰か 見ててくれないか
誰か 誰か 聴いてくれないか
声が 音が 空に 浮かんで
届け 届け 響け そう 響け 

雨と 風と 君の歌だぜ
愛と 恋と 僕の歌だぜ

アメリカ ジャマイカ インドネシア エチオピア

山と 海と 乗り越え 鳴らせ 
彼方へ 飛ばせ 

届いてる? 


一読されればお分かりかと思うが、ここには、上で指摘した作詞の技法はあまり多用されていない。強いて言うなら、同じ言葉を繰り返したり、語尾の音が同じ言葉を連ねたりといったところだろうか。

言いたいことをストレートに言おうとすると、どうしても虚飾を排し、ストレートな表現になってしまう。これは一般の人間でも同じではないだろうか。民生氏の場合もそうだと言えるだろう。しかし、ストレートな表現を避けている彼にとって、避けていることをあえて行わなければならないほど、表現したいことがあった…CUSTOMを聴くと、そういう思いに駆られる。

では、歌詞の中身の考察に入ろう。この歌詞からうかがえることは、民生氏が「言葉を信用していない」ということである。それは、「伝えたいことは 言葉にしたくはないんだ」「頭の中が 見せられるなら 見せるんだ」という歌詞から推察できる。確かに、言葉は両刃の剣である。言葉は気持ちを伝えるためには避けられないものだが、使い方を間違えると、自分の意図しないところで、相手を深く傷つけることもある。逆もまた真で、相手の何気ない一言で、私たちは深く傷つく。時には立ち直れないほどに。

民生氏は若くしてユニコーンというバンドでデビューし、一瞬の内にスターダムに駆けのぼられた。芸能界という華やかな世界のことは私には理解できないが、20代前半の若者には抱えきれない、つらい思いを沢山されたのではないだろうかと思う。人間は、華やかなところにはどんどん寄ってくるものだからだ。まるで、花の蜜に群がる蜂のように。そこで、意味のない空虚な褒め言葉を沢山聴かされたのではないだろうか。

このような、「言葉」を信じていたのに「言葉」に裏切られた、という辛い経験から、民生氏は「言葉」を信用することができなくなってしまったのではないか。なぜなら、初期のユニコーンや、ソロデビュー後初シングル「愛のために」や「息子」で民生氏が書かれた歌詞は、彼のストレートな感情のほとばしりを感じることができるものが多いからだ。

民生氏の楽曲の中に良く使用される、矛盾する2つの要素を同時に一つの楽曲に存在させるというパターン。これは、民生氏の中にある、アンビバレントな思いの表れではないだろうか?---「自分の思いをわかってほしい、でも、言葉は使いたくない」だから、「頭の中が 見せられるなら 見せるんだ ただ笑ってるだけで すむのさ」

ここからは、私の勝手な意見である。

人は、相手を信用しなければ、決して相手から信用されない。求めるばかりでは、決して与えられない。これは、言葉に対しても同じではないだろうか。言葉を信用しない人は、必ず言葉に裏切られる。なぜなら、言葉を尊重しないからだ。

民生氏の楽曲を聴いて、なぜこんなにも惹かれるのか、その理由を知りたいがために、このブログを開設したが、答えが少し見えてきた気がする。それは、民生氏の心の奥底には、愛を求めて泣いている幼い子供がいて、その子供の泣き声から耳をふさぐことができなかったからである。

子供はいくらでも愛を求めて構わない。それが仕事だからだ。そして、大人の役割は、子供に、与えられるだけの愛をすべて与えてやることだ。
民生氏の楽曲を聴いていると、まだ彼の中の子供は愛に飢えているようである。子供なら、なりふり構わず愛を求め泣いても許されるが、大人がこれをやる訳にはいかない。でも愛は欲しい。さて、どうしたらいいのだろうか。

答えは、もうお分かりだと思うが、たとえ裏切られても、相手を信じることを辞めないことだ。傷つくことを恐れず、まず自分から愛を与えることだ。自分の抱える孤独と向き合い、それを自分で乗り越えない限り、いくら他人と一緒にいても、魂の孤独は癒されることはない。他人は他人なのだ。

奥田民生氏の芸術家としての才能、努力を惜しまない誠実さ、自己の音楽と向き合う時の、厳しすぎるとも取れる姿勢、それはもう天才の域だと言っても過言ではない。しかし、ベートーベンの例にもあるように、天才の実生活が必ずしも愛に満ちていたとは限らないし、そうでない場合の方が多いのではないだろうか。

私は、芸術家の方々を尊敬している。その素晴らしい、美しい魂が、俗世間の垢にまみれてしまわないように、芸術家の方々を護れたらと思う。しかし、「そしたらどうしたらいいのさ」

あなたの思いは、われわれのもとに届いてる。それを伝えるにはどうしたらいいのだろうか?
私たち一般人は、どうすれば、あなたの思いが届いていることを、あなたに伝えることができるのだろうか?

人はみな、その中に深い闇を抱えて生きている。

そういう意味では、一般人も、表現者も、同じ人間である。

あなたの歌を聴いて、私たちの孤独が癒されたように、あなたの孤独がこの拙い文章を読むことで、少しでも癒されますように。

2010年6月29日火曜日

コラム:digital divideという差別

 人間社会には、その進化の過程に応じて様々な差別がある。例えば、古来より最も長く続いてきたのは、女性差別と身体障害者差別であろう。この2つは、人間社会が進化するにつれて、少しずつその激しさを減じてはいるけれども、なくなることはない。江戸時代には、士農工商エタ・非人といわれるように、部落差別が生まれ、現代でも続いている。また、学歴差別、宗教差別、出自による差別、職業差別、病による差別と、差別をあげればきりがない。ただ、ここに挙げた差別の多くは、それが「差別」と認識され、無くしていく方向に向かおうというコンセンサスがその社会である程度図れている点で救いがある。勿論、現在もこういった差別に苦しんでいる人がいることは否定しない。
 現代社会で、いま静かに進行し、「差別」として認識されていない差別がある。それがタイトルに挙げた「digital devide」(デジタルディバイド)である。現代社会では、「富」を得るためにもっとも必要とされるのは、「情報」である。株取引一つを取り上げても、ある会社に関する情報を握っている人間がもっとも有利な取引ができるのは明白だ。その情報を得る手段が、パソコンやインターネットなどのデジタル機器を必要とするものに、すごい勢いで移りつつある。いわゆるマス・メディア(テレビ・新聞・雑誌など)の情報は、はっきり言って古いのだ。情報としての価値はあまりない。
 みなさんは、不思議に思ったことはないだろうか?どうして自分はいつも行きたいライブのチケットを電話で予約しようとしてもできないのに、あの人はいつもチケットを手にしている、それも随分前の段階で。その答えは、デジタル機器の操作性、いわゆるメディアリテラシーの高さによるのである。
 大変閉鎖的で、選民思想にも通じるので、私は嫌いなのだが、現代社会は確実にデジタル的格差社会である。そして、この格差社会の厄介な点は、利益を得ていない人間がその不平等性を主張することはまずない、ということだ。なぜなら、「情報を得られない」イコール「本人の努力不足(あるいは知識不足)」として片づけられてしまうからだ。これは、市場経済、あるいは資本主義社会の「弱肉強食」主義と全く同じである。つまり、自己責任、ということだろう。
 現代社会では、「誰もが平等」というスローガンのもと、小学校では運動会に1位を決めない学校もあるそうだ。しかし、こんな見せかけの「平等主義」の下で、新たな差別社会は着々と肥え太っているのである。この社会に真の平等など存在しない。なぜなら、人間一人ひとりが生まれ持った能力はそれぞれ異なるし、家庭環境、本人の努力する能力、趣味、興味の対象など、いわゆる「個性」と言われているものは個人によって異なるからである。「個性」…なんと便利な言葉であろうか。「パソコンが使えない」「お金がない」「やる気がない」…こういったネガティブな側面まで、この「個性」という言葉は引き受けてくれる。そして、私たちが努力する理由を奪い取っていく。
 この差別をなくすために取れる唯一の方法は、「教育」である。ベタだが、これしかない。小学校から、「情報教育」、特に、自分の必要とする情報をどのようにして手に入れるのか、その方法論を徹底的にたたきこむべきだ。でなければ、日本は、一部の「情報エリート」とその他大勢の無知蒙昧な「情報難民」に分かれ、「情報エリート」による富の占有化がますます進むだろう。
それでいいのだろうか?私はいいとは思わないが。

2010年6月28日月曜日

映画日記:和製タランティーノ! 『シーサイドモーテル』 2010/6/27(日) シネリーブル神戸

監督・脚本:守屋健太郎 主演:古田新太 生田斗真 麻生久美子 小島聖 山田孝之 玉山鉄二 成海璃子 池田鉄洋 温水洋一 音楽:Your Song is Good 主題歌:ラナウェイ シャネルズ

いやあ、勘だけで「おもしろそう!」と思って観たんですが、これがもう当たり中の当たり!超おもしろかったです!

映画を見るときは、タイトル、ポスターの雰囲気、出演者、監督なんかで、観るかどうか決めるのですが、これを見る決め手になったのは、やはり古田新太さん。古田さんは、劇団新感線の看板役者であり、またご自分でも”ネズミの三銃士”というユニット(池田成志さん、生瀬さん)を主宰し、去年宮藤官九郎さん脚本の「印獣」(三田佳子主演)という凄い舞台をされました。また、テレビドラマでも活躍されており、私の大好きな役者さんのお一人です。
古田さんの感性を信用しているので、古田さんの出ている映画はもう絶対おもしろい!古田さんを見れるだけでも、映画を見る価値がある!と思って観たのですが…。もう和製タランティーノ!!!

タランティーノの映画を始めてみたのは、多分"PULP FICTION"だったと思うけど、あの時に感じた衝撃と同じものを感じました。タランティーノの映画は、その脚本、カット割り、音楽、役者の起用まで、彼独特のこだわりが徹底しており、一見何の脈絡もない、別々のストーリーが、複雑に絡まり合い、終盤へ向けて一気に同じゴールへと向かっていくときの、あの爽快感が堪らず、大ファンなのですが、この映画にも同じこだわりがあります。

映画の舞台は、シーサイドモーテルという、うらぶれた田舎のモーテル。おそらく東海か、関東北部と思われる、木々以外にはなにもない(勿論海も!)辺鄙な場所にそのモーテルはあります。
モーテルの雰囲気がたまらなくいい!古くてボロボロなんだけど、70's~80'sのアメリカのインテリアって感じで、懐かしいようなおしゃれな内装。登場人物が来ている洋服の色彩感覚も抜群!

物語は、そのモーテルのそれぞれの部屋で繰り広げられる、それぞれのお客の人間模様をちょっと冷めた、コミカルな視点で描きます。タランティーノの映画と同じように、嘘・裏切り・暴力・殺人・セックスといった、いわゆるおこちゃまにはちょっと…的な場面も多いのですが、まあ、おこちゃまはディズニー映画でも観とけばいいんじゃないすかね?これは大人のための、大人の娯楽映画ですからね。

ストーリーはあってないような感じなんですが、それぞれのエピソードや台詞がもうとってもおもしろい!原作があるそうなので
買って読んでみたいと思います。いやあ、でも、この守屋さんという監督、すごい人ですね!必ず巨匠と呼ばれるようになる!と確信しました。

役者の方々の演技も素晴らしく、特に麻生久美子さんの小悪魔的デリヘル嬢は良かった!麻生さんも大好きな女優さんです。この方はほんとに幅広い役をこなされますね~。

この映画は見とかないと損しますよ!ぜひ映画館に足を運んでください!!!

2010年6月26日土曜日

観劇日記: コント以上演劇未満 「愛pod」 at シアタードラマシティ 2010/6/26(土)

本日、鈴木おさむ作・演出、今田耕司、堀内健、サバンナ高橋、ブラックマヨネーズ小杉主演の「愛pod」を見てきました。

やはり、お笑い芸人さんの瞬発力は凄い!コント部分の台詞のやり取りはテンポもよく、客席もどっかんどっかんと湧いていました。

ただ、演劇として今回の舞台を観ると、いくつか不満が残りました。
まず、舞台装置。テレビのコントの書き割りと大差なく、大変平面的。このため、舞台に奥行きがなく、舞台がコント以上に見えることはありませんでした。
それから、脚本・演出面。コント部分は大変面白かったのですが、舞台も終盤になり、シリアスな場面になると、主人公の今田さんの説明的なセリフがこれでもかと続きます。途中からもう聴く気が失せました。
演劇では、台詞と台詞の間にどのような「間」を取るかによって、観客にセリフ以上のものを想像させることができます。それを、すべて役者の台詞で説明してしまうと、観客の想像力を働かせる余地がありません。結果、とても退屈な舞台になります。

それから、最後に使用されていた、印象的な場面をつなぐモンタージュ。これは、テレビや映画の手法をそのまま演劇の舞台に応用したものであり、何の工夫も感じませんでした。先ほどの指摘と同じく、観客の想像力を掻き立てることは失敗していたと思います。

鈴木さんの着想は面白かったので、鈴木さんは脚本のみを担当し、演出は演劇の専門家に任せた方が、よい舞台になったのではないでしょうか。想像ですが、裏方のスタッフもきっとテレビ業界の方方で、演劇分野で活躍されている人は関わってなかったのでは?それほど、演劇的手法に欠ける舞台でした。これを演劇として舞台に乗せる必然性はまったく感じませんでした。テレビで十分です。

観客には大変受けていたので、まあ、一概に私の意見が正しいとは言えないことは百も承知ですけどね…。

2010年6月25日金曜日

奥田民生:アンダルシアの太陽 『Room 503』 ひとりカンタビレ

奥田民生氏のひとりカンタビレライブの楽曲が、8月4日に『OTRL』というタイトルでアルバムとしてリリースされる。全10曲の音源を改めてスタジオでリミックスし、それに「幻の公演」として、『暗黒の闇』という楽曲が追加された、全11曲である。初回限定盤には、これにカンタビレライブの模様をダイジェストにしたDVDが付く。AMAZONで予約すると、初回限定盤が20パーセントOFFで購入できるので、この奇跡のライブを生でご覧になれなかった方には、初回限定盤の購入をお勧めする。

さて、宣伝はこのくらいにして、ひとりカンタビレの楽曲の考察に入ろう。ひとりカンタビレの楽曲の中で、一際異彩を放っているのは、この『Room 503』ではないだろうか。民生氏の楽曲には珍しく、スペイン民謡を彷彿とさせるギターの音色と、手拍子、カスタネット、タンバリンが入っている。

最初は、この曲の印象はあまり強くはなかった。これは5月21日の名古屋ダイヤモンドホールで録音されたが、最終楽曲の5月23日収録の『解体ショー』と同時に配信された。今までの楽曲が、ほぼその日のうちの配信だったことから考えると、この1曲はすこし趣向が違っているのだろうか、という疑問が浮かぶ。

耳にした第一印象は、その音の美しさである。単純に、録音のクオリティが他の楽曲と比較にならないくらい良い。素人の私でもその違いが分かるほどである。そして、スペインの明るい、強烈な日差しを思い起こさせるような、ギターの音色。いきなり、溢れんばかりの陽光に照らされたかのような、音を聴くだけで眩しさを感じるような明るさである。

手拍子やカスタネット、タンバリンで、スペイン風の独特な、細かいリズムが刻まれ、聴いているだけで、心が浮き立つような曲調である。また、ギターソロの演奏が素晴らしい。クラシックギターを思い起こさせる、美しく繊細なメロディ。その響きは官能的ですらある。

「ひとりカンタビレ」というライブのタイトル通り、民生氏は、この楽曲で、オーケストラのような美しいシンフォニーを、ギター、ドラム、ベース、パーカッションのみで表現されている。この楽曲を聴きこめば聴きこむほど、この曲が持つ絵画的な美しさに心が打たれる。

また、メロディやリズムの圧倒的な明るさとは対照的に、詩の内容は「朝が来ることはない」といった、「暗闇」を連想させる暗いものである。民生氏の楽曲によく使用される手法であるが、相反する2つの要素をそのまま1つの曲の中に存在させ、聴く者にアンビバレントな不安を抱かせるという手法が、ここでも、メロディと詩の内容の矛盾という形で使われている。

民生氏は、ご自身の音楽性について、ご自分から多くを語る方ではない。しかし、この楽曲をお聴きになれば、民生氏の音楽的背景の深さと広さを感じずにはいられないだろう。民生氏の楽曲は、いわゆる彼の音楽性という大きな氷山の一角であり、氏の音楽的背景は、ロックやポップスに止まらず、クラシックや民族音楽など、様々な要素を含んでいると思われる。これは、氏の音楽家としての柔軟性、芸術家としての審美眼の高さ、確かさを表していると私は感じる。

2010年6月21日月曜日

奥田民生:運命の扉 『解体ショー』とひとりカンタビレ

私が奥田民生氏のカンタビレの楽曲の中で最も好きなものは、最終楽曲の『解体ショー』である。もう何十回聴いたかわからない。しかし、まだ聴き方が甘かったようである。

みなさんは、この楽曲の冒頭のドラムに気づかれただろうか。「ダダダ」と8分の1拍子を刻み、その後ギターとともに「ジャーン」と入る。私はこれまでここを聞き流していた。しかし、ふと、「これは、ベートーベンの交響曲第5番の『運命』の冒頭と同じリズムだ。」ということに思い当った。不思議なもので、いったんそう聴こえると、そのようにしか聴こえない。

ここからは、私のこの当て推量に基づく考察なので、真偽のほどは保障できない。

民生氏がこのひとりカンタビレという企画を行おうと決意されたとき、その裏には、大きな勇気---それは蛮勇といっても過言ではない---を必要とされた、というのは想像に難くない。様々な葛藤や迷いと戦われ、それでもご自分の未来を切り拓こうという決意を固められた。それは、カンタビレの最初の曲『最強のこれから』に表れているように感じる。

民生氏にとっても初めての経験であるカンタビレライブは、予想もつかないようなハプニングや問題の連続だったのではないか。事実、4月29日のPARCO劇場(収録曲『音のない音』)では、氏のMacがフリーズするという、あわやカンタビレもここまでか、というトラブルが起きた。
そういった様々な困難を乗り越えていく中で、氏の音楽家としての才能、技術の確かさ、志の高さなどが徐々に周りに影響を与えていく。それは単に音楽業界に止まらない。5月21日に日本テレビで放送された「ニュースZERO」のZEROパーソンのコーナーで、氏のひとりカンタビレライブの模様と、音楽業界の行く末を案じ、若いミュージシャンに対する深い思いやりを表現された氏の姿に感銘を受けた方も多いだろう。そして、氏がどれほど誠実に音楽と向き合っておられるか、その姿勢を見せることで、氏は多くの人々に勇気を与えた。私も勇気を貰ったひとりである。

民生氏の中でも、恐らくこのひとりカンタビレライブを行ったことで、何かが変わられたのではないか。それは、氏の勇気ある行動が、周りの人間に確かな影響を与えていると実感し、ご自身の影響力の大きさを改めて認識され、音楽家としての大きな責任を感じられたのではないだろうか。

運命の扉は、困難を承知の上で、あえてそれを引き受ける覚悟を決め、扉を開けようとするものにしか開かない。民生氏は、そのことをこのひとりカンタビレライブを通して確信し、その信念からひとりカンタビレ最終曲『解体ショー』は生まれたように私は感じる。

民生氏は音楽家でいらっしゃるので、氏の世界の表現は音楽の方法論に則っている。しかし、注意して氏の楽曲を聴けば、氏のメッセージを読み取ることは可能だと思う。そして、氏のメッセージは、詞だけではなく、作曲作法、使用楽器、演奏方法など、言葉というものに依存している要素が少ない分、日本語という枠にとらわれることなく、全世界に通じる、力強い普遍性を持っているのだ。