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2010年7月6日火曜日

奥田民生:求めよ、さらば救われん ---表現者という孤独

これまで、何回かにわたって拙い私的奥田民生論を展開してきたが、ここで一旦中間総括を行っておきたいと思う。

民生氏の作詞の技法として、メタファーの多用、擬音語、同音異義語の多用、矛盾する表現を同時に使用するなど、これまでの考察の中でいくつか指摘してきた。それを踏まえた上で、民生氏の詩の世界をもう一度考えてみると、興味深いことが浮かんでくる。

民生氏は、ご自分の心の内をストレートに歌詞に載せる、ということはほとんどない。上記で指摘した技法を駆使して、いうなればリスナーを上手に「煙に巻く」ことを得意としていらっしゃる。しかし、いわゆる芸術家といわれる方たちは、表現する以外に魂のほとばしりを止める手段がないので、やむにやまれず表現者に成っているのだ。だから、自分のメッセージが伝わらなくていいと思っている表現者はいないだろう。そういう意味では、民生氏も表現者であるから、「どうしても伝えたいこと」を必ずお持ちである。

皆さんは民生氏のCUSTOMという楽曲をご存じだろうか?どなたかがもう指摘されていることだが、この楽曲は珍しく民生氏のストレートな思いが歌になったものである。以下に歌詞を引用する。

CUSTOM

伝えたいことが そりゃ僕にだってあるんだ
ただ笑ってるけれど

伝えたいことは 言葉にしたくはないんだ
そしたらどうしたらいいのさ

そこで 目を閉じて 黙って 閃いて 気持ちこめて
適当な タイトルで ギターを弾いてみました


頭の中が 見せられるなら 見せるんだ
ただ笑ってるだけで すむのさ

だから 目を閉じて 気取って 間違えて 汗をかいて
あやふやな ハミングで 歌を歌ってみました
叫びました

誰か 誰か 見ててくれないか
誰か 誰か 聴いてくれないか
声が 音が 空に 浮かんで
届け 届け 響け そう 響け 

雨と 風と 君の歌だぜ
愛と 恋と 僕の歌だぜ

アメリカ ジャマイカ インドネシア エチオピア

山と 海と 乗り越え 鳴らせ 
彼方へ 飛ばせ 

届いてる? 


一読されればお分かりかと思うが、ここには、上で指摘した作詞の技法はあまり多用されていない。強いて言うなら、同じ言葉を繰り返したり、語尾の音が同じ言葉を連ねたりといったところだろうか。

言いたいことをストレートに言おうとすると、どうしても虚飾を排し、ストレートな表現になってしまう。これは一般の人間でも同じではないだろうか。民生氏の場合もそうだと言えるだろう。しかし、ストレートな表現を避けている彼にとって、避けていることをあえて行わなければならないほど、表現したいことがあった…CUSTOMを聴くと、そういう思いに駆られる。

では、歌詞の中身の考察に入ろう。この歌詞からうかがえることは、民生氏が「言葉を信用していない」ということである。それは、「伝えたいことは 言葉にしたくはないんだ」「頭の中が 見せられるなら 見せるんだ」という歌詞から推察できる。確かに、言葉は両刃の剣である。言葉は気持ちを伝えるためには避けられないものだが、使い方を間違えると、自分の意図しないところで、相手を深く傷つけることもある。逆もまた真で、相手の何気ない一言で、私たちは深く傷つく。時には立ち直れないほどに。

民生氏は若くしてユニコーンというバンドでデビューし、一瞬の内にスターダムに駆けのぼられた。芸能界という華やかな世界のことは私には理解できないが、20代前半の若者には抱えきれない、つらい思いを沢山されたのではないだろうかと思う。人間は、華やかなところにはどんどん寄ってくるものだからだ。まるで、花の蜜に群がる蜂のように。そこで、意味のない空虚な褒め言葉を沢山聴かされたのではないだろうか。

このような、「言葉」を信じていたのに「言葉」に裏切られた、という辛い経験から、民生氏は「言葉」を信用することができなくなってしまったのではないか。なぜなら、初期のユニコーンや、ソロデビュー後初シングル「愛のために」や「息子」で民生氏が書かれた歌詞は、彼のストレートな感情のほとばしりを感じることができるものが多いからだ。

民生氏の楽曲の中に良く使用される、矛盾する2つの要素を同時に一つの楽曲に存在させるというパターン。これは、民生氏の中にある、アンビバレントな思いの表れではないだろうか?---「自分の思いをわかってほしい、でも、言葉は使いたくない」だから、「頭の中が 見せられるなら 見せるんだ ただ笑ってるだけで すむのさ」

ここからは、私の勝手な意見である。

人は、相手を信用しなければ、決して相手から信用されない。求めるばかりでは、決して与えられない。これは、言葉に対しても同じではないだろうか。言葉を信用しない人は、必ず言葉に裏切られる。なぜなら、言葉を尊重しないからだ。

民生氏の楽曲を聴いて、なぜこんなにも惹かれるのか、その理由を知りたいがために、このブログを開設したが、答えが少し見えてきた気がする。それは、民生氏の心の奥底には、愛を求めて泣いている幼い子供がいて、その子供の泣き声から耳をふさぐことができなかったからである。

子供はいくらでも愛を求めて構わない。それが仕事だからだ。そして、大人の役割は、子供に、与えられるだけの愛をすべて与えてやることだ。
民生氏の楽曲を聴いていると、まだ彼の中の子供は愛に飢えているようである。子供なら、なりふり構わず愛を求め泣いても許されるが、大人がこれをやる訳にはいかない。でも愛は欲しい。さて、どうしたらいいのだろうか。

答えは、もうお分かりだと思うが、たとえ裏切られても、相手を信じることを辞めないことだ。傷つくことを恐れず、まず自分から愛を与えることだ。自分の抱える孤独と向き合い、それを自分で乗り越えない限り、いくら他人と一緒にいても、魂の孤独は癒されることはない。他人は他人なのだ。

奥田民生氏の芸術家としての才能、努力を惜しまない誠実さ、自己の音楽と向き合う時の、厳しすぎるとも取れる姿勢、それはもう天才の域だと言っても過言ではない。しかし、ベートーベンの例にもあるように、天才の実生活が必ずしも愛に満ちていたとは限らないし、そうでない場合の方が多いのではないだろうか。

私は、芸術家の方々を尊敬している。その素晴らしい、美しい魂が、俗世間の垢にまみれてしまわないように、芸術家の方々を護れたらと思う。しかし、「そしたらどうしたらいいのさ」

あなたの思いは、われわれのもとに届いてる。それを伝えるにはどうしたらいいのだろうか?
私たち一般人は、どうすれば、あなたの思いが届いていることを、あなたに伝えることができるのだろうか?

人はみな、その中に深い闇を抱えて生きている。

そういう意味では、一般人も、表現者も、同じ人間である。

あなたの歌を聴いて、私たちの孤独が癒されたように、あなたの孤独がこの拙い文章を読むことで、少しでも癒されますように。

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