人間社会には、その進化の過程に応じて様々な差別がある。例えば、古来より最も長く続いてきたのは、女性差別と身体障害者差別であろう。この2つは、人間社会が進化するにつれて、少しずつその激しさを減じてはいるけれども、なくなることはない。江戸時代には、士農工商エタ・非人といわれるように、部落差別が生まれ、現代でも続いている。また、学歴差別、宗教差別、出自による差別、職業差別、病による差別と、差別をあげればきりがない。ただ、ここに挙げた差別の多くは、それが「差別」と認識され、無くしていく方向に向かおうというコンセンサスがその社会である程度図れている点で救いがある。勿論、現在もこういった差別に苦しんでいる人がいることは否定しない。
現代社会で、いま静かに進行し、「差別」として認識されていない差別がある。それがタイトルに挙げた「digital devide」(デジタルディバイド)である。現代社会では、「富」を得るためにもっとも必要とされるのは、「情報」である。株取引一つを取り上げても、ある会社に関する情報を握っている人間がもっとも有利な取引ができるのは明白だ。その情報を得る手段が、パソコンやインターネットなどのデジタル機器を必要とするものに、すごい勢いで移りつつある。いわゆるマス・メディア(テレビ・新聞・雑誌など)の情報は、はっきり言って古いのだ。情報としての価値はあまりない。
みなさんは、不思議に思ったことはないだろうか?どうして自分はいつも行きたいライブのチケットを電話で予約しようとしてもできないのに、あの人はいつもチケットを手にしている、それも随分前の段階で。その答えは、デジタル機器の操作性、いわゆるメディアリテラシーの高さによるのである。
大変閉鎖的で、選民思想にも通じるので、私は嫌いなのだが、現代社会は確実にデジタル的格差社会である。そして、この格差社会の厄介な点は、利益を得ていない人間がその不平等性を主張することはまずない、ということだ。なぜなら、「情報を得られない」イコール「本人の努力不足(あるいは知識不足)」として片づけられてしまうからだ。これは、市場経済、あるいは資本主義社会の「弱肉強食」主義と全く同じである。つまり、自己責任、ということだろう。
現代社会では、「誰もが平等」というスローガンのもと、小学校では運動会に1位を決めない学校もあるそうだ。しかし、こんな見せかけの「平等主義」の下で、新たな差別社会は着々と肥え太っているのである。この社会に真の平等など存在しない。なぜなら、人間一人ひとりが生まれ持った能力はそれぞれ異なるし、家庭環境、本人の努力する能力、趣味、興味の対象など、いわゆる「個性」と言われているものは個人によって異なるからである。「個性」…なんと便利な言葉であろうか。「パソコンが使えない」「お金がない」「やる気がない」…こういったネガティブな側面まで、この「個性」という言葉は引き受けてくれる。そして、私たちが努力する理由を奪い取っていく。
この差別をなくすために取れる唯一の方法は、「教育」である。ベタだが、これしかない。小学校から、「情報教育」、特に、自分の必要とする情報をどのようにして手に入れるのか、その方法論を徹底的にたたきこむべきだ。でなければ、日本は、一部の「情報エリート」とその他大勢の無知蒙昧な「情報難民」に分かれ、「情報エリート」による富の占有化がますます進むだろう。
それでいいのだろうか?私はいいとは思わないが。
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