民生氏の詩の世界には、頻出する言葉というのがいくつかある。民生氏の楽曲をよく聞いておられる方ならお気づきであろうが、「愛」「道」「旅」「海」「空」「山」「雨」「太陽」…などである。そして、そういった言葉の中でも、最頻出の言葉のひとつは「花」であろう。
また少し言語学の知識を援用したいのだが、一般に比喩といわれているものは、直喩と暗喩とに分けられる。直喩とは、「君はライオンのようだ」にあるように、「~のようだ」という言葉が付いているものである。譬えであるということが、この「~ようだ」という言葉からすぐわかるので、「直喩」という。暗喩とは、メタファーに代表されるものであるが、「君はライオンだ。」これが暗喩(メタファー)である。もう少し難しい話にお付き合いいただきたいが、暗喩には、メタファー(metaphor), メトニミー(metonymy)(換喩)、シネクドキ(synecdoche)(提喩)の3種類がある。metaphorは、あるものを類似性に立脚して別のものでたとえる方法(君はライオンだ)、metonymyは「隣接関係」に立脚しており、たとえば、「永田町界隈が騒がしい」などという表現で使われる「永田町」は、永田町にある政治の中枢(国会議事堂)を指す。synecdocheは「部分と全体の関係」「種と類の関係」といわれるが、あるものをそれが属するより大きな全体でたとえる方法(英語で海のことをwartersと表現する場合)である。
では、民生氏のよく使われる言葉「花」に戻ろう。「花」はsynecdocheである。古来より、日本人が「花」というと、それは「桜」を指していた。つまり、「花」が“類”で「桜」が“種”である。紀貫之の短歌がその代表例である。
ひさかたの 光のどけき 春の日に しずこころなく 花の散るらむ
長い間日本人にとって「花」=「桜」という図式は定着したものだった。
しかし、民生氏の歌詞に出てくる「花」で、「桜」を指していると思われるものはない。民生氏は、ご自身の楽曲「野ばら」や、くるりの「ばらの花」をカバーされていることからも推察できるように、「花」=「薔薇」とお考えだと思う。では、なぜ民生氏にとって、「花」は「桜」ではなく「薔薇」なのだろうか。
ここで、爆笑問題の太田光氏と中沢新一氏との共著「憲法第9条を世界遺産に」(集英社新書)から、太田氏の桜と薔薇に関する興味深い考察を取り上げてみたいと思う。
太田氏は、この本の中で、坂口安吾の「桜の森の満開の下」を例にとり、「桜というのは、根元に死体を隠しているかもしれないと思わせるような狂気を含んでいるが、その狂気を隠し、一斉に咲き誇る幻想的な光景で人を狂気に導く、恐ろしい花だ」というようなことを述べられている。それに対して、「薔薇は、同じ花でも、とげがあることを隠していない。そういう点で潔い。僕は桜より薔薇が好きだ。」ということをおっしゃっている。
民生氏の楽曲でも、「花」は『花になる』の歌詞から見てとれるように、決して桜ではない。
魂の男 野に咲く花になる
魂の男 太陽が照らす
最強の花に 究極の太陽に
(『花になる』 『E』2002)
桜は、一瞬にあでやかに咲き、刹那の美しさを私たちに与え、一斉に散っていく。これは、あることに国民全体が一瞬で熱狂し、ブームが去ればすぐ醒めるという日本人の精神性に非常に合致している花だといえるだろう。もちろん昔の人びとは、盛者必衰といったむなしさをこの花に見て取ったことも否定はできないが。
それに対して、「荒野に咲く花」は決して群れて咲くことはない。イメージは一輪で荒野にしっかり立って咲いている薔薇である。
民生氏の楽曲に通奏低音のように流れている哲学、そこから推察される彼の信条は、「人に安易に同調せず、自分の信念を貫き通す」というものなのではないだろうか。このことから考えると、やはり「桜」では、イメージに合わないのはお分かりだろう。
民生氏の革新的な企画「ひとりカンタビレ」、これは、民生氏が自宅でされている「宅録」をステージの上で公開し、ドラム、ベース、ギター、タンバリンの演奏、ボーカルをすべてひとりで行い、さらにはミックスダウンも氏が行ったうえで、3時間半のうちに1曲を完成させてしまうという驚くべきものであったが、このような企画を立て、実行に移すには、一体どれだけの技術、労力、才能が必要なのか、想像ができないくらいである。このような企画を実現してしまうのは、やはり、民生氏が「自分の才能と演奏技術のみをよりどころにして勝負する」という決意を持っていらっしゃるからだと思う。民生氏は、決してそれを声高に言う方ではない。だが、彼の舞台上でのパフォーマンスは、まさに「荒野に咲く一輪の薔薇」の潔さを私たちに連想させる。そして、その決意の確かさに私たちは圧倒され、深い感動を覚えるのであろう。
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